共通言語としての医療ID
私たち医療者同士がコミュケーションするとき、専門用語と科学的な思考を使って情報を伝えたり受け取ったり交換しています。
例:救急外来を受診した患者を観察し、看護師は次のように評価します。事実と観察項目は次の通り:56歳男性、労作時に発症した胸痛で来院。家族に抱えられるようにしながらERに入ってきた。顔色は真っ青で、表情は苦しそう、呼吸は肩で息をしている。観察から評価:発症のエピソードから心筋梗塞が考えられる、チアノーゼあり、苦悶様顔貌、呼吸困難あり、姿勢を保つのは困難、呼びかけで開眼あり。評価から判断を作り医師に伝達:56歳男性、心筋梗塞と思われる患者が来ています。意識は呼びかけで開眼するレベル(AVPUのV)でチアノーゼあり、苦悶様で呼吸困難を呈しています。
ここで使われている専門用語と科学的な思考に下線を引きました。
例:救急外来を受診した患者を観察し、看護師は次のように評価します。事実と観察項目は次の通り:56歳男性、労作時に発症した胸痛で来院。家族に抱えられるようにしながらERに入ってきた。顔色は真っ青で、表情は苦しそう、呼吸は肩で息をしている。看護師による観察から評価:発症のエピソードから心筋梗塞が考えられる、チアノーゼあり、苦悶様顔貌、呼吸困難あり、姿勢を保つのは困難、呼びかけで開眼あり。看護師による評価から判断、そして医師に伝達:56歳男性、心筋梗塞と思われる患者が来ています。意識は呼びかけで開眼するレベル(AVPUのV)でチアノーゼあり、苦悶様で呼吸困難を呈しています。
観察→評価→判断→行動、という認知機能・ガニェの学習成果の5分類の応用
この記事のトピックスから外れますが、医療者が日常的に行っている観察から判断、さらに行動に至る認知機能について触れたいと思います。何を観察すればいいのか知っている場合、ポイントを絞って・観るべきことを観察することができます。観察するには、何を観察すれば目的を達するかがわかり、観察のチェックリストが頭のなかにできている必要があります。それを前提に患者を観察します。観察から判断に至るまでの技能を「知的技能」と呼びます。観察した感覚情報を具体的な概念である徴候・サインに置き換えることを評価といいます。評価が集まると、例えば、顔面蒼白、冷汗、皮膚冷感という具体的な概念は、ショックという定義された概念を意味する、と同じように、判断(定義された概念)を導きます(ルール・原理)。ショックと判断できればショックの原因を分類する、取り敢えず酸素を投与するなどの行動を選択します。ここまでは頭のなかで行うので認知機能になります。選択した行動を手足を使って実行する技能は運動技能になります。運動技能の練習をしても知的技能は獲得されません。なぜなら運動技能と知的技能は異なる学習成果であり、学習法票はそれぞれに異なるからです(これがガニェの研究成果)。「急変させない患者観察テクニック」(羊土社)では観察から行動に至るまでの認知機能を丁寧に記述し独習できるように工夫しました。
この例では患者と接する医療者のタスクのひとつとして、患者が経験している出来事を聴き取り、医学・看護学が共通理解できる用語やロジックに置き換えることがあることと、とくに看護師は患者と医師のインターフェイスとして、患者と家族の文化の中で使用される言語的・非言語的な表現を自然科学・医学で理解できるようにその論理と用語を使って医療者に翻訳する重要なタスクを担っています。
患者と家族、医療者、医療者の中でそれぞれの領域(内科、外科、総合診療、救急・・・、医師、看護師、薬剤師、メディカルスタッフ、それぞれの部署)の専門家は同じ日本語を共有して日常的に会話していますが、専門的なコミュニケーションの言語と論理を共有しているわけではありません。
上記の例は臨床現場での話ですが、同じ話は教育・トレーニングの現場でも成立します。
医療者の教育・トレーニングの現場で用いる共通言語とロジック、それが医療インストラクショナル・デザインになります。
例としてアメリカ心臓協会のガイドラインとシミュレーションコース(ECCプログラム)の関係を見てみましょう。G2000までのECCプログラムでは、スクラップ&ビルドの方式でシミュレーションコースが開発されていました。作っては壊し、作っては壊す。G2005からガイドラインを作成する専門家と、ガイドラインを元にシミュレーションコースを設計・制作する専門家が独立する体制となりそれが現在も続いています。ガイドラインを作る専門家は蘇生の専門家で、subject matter expert (SME)と呼びます。ガイドラインを元にシミュレーションコースを設計・制作するチームはインストラクショナル・デザインの専門家(instructional designの専門家という意味で、instructional designer、IDerと呼びます)になります。かれらは看護師や救急救命士出身で大学院でIDでPhDを取得し、普段は大学教員として勤務するなど仕事を持っていますが、AHAのシミュレーションコースのデザインと製作時はチームを組んで協力しているようです。
AHAのACLSコースでは、AHAのガイドラインを理解しシミュレーションコースで使えるようになることが目的になっています。現場の心停止患者を救命すること、ではありません。いやいやACLSコースを受講すれば院内心停止患者の救命処置ができるようになるだろう、というような拡大解釈はしません。AHAのガイドラインを理解しシミュレーションコースで使えるようになることが目的=コースの出口と書かれているわけで、そのとおりに理解します。といってもデザインにガチガチに縛られる必要はありません、というのが医療IDの立場です。設計図がないと建築物は立てられないけれど、設計図のとおりに出来るわけでもなく、適宜、修正や調整が必要になる、という立場です。フレキシブルなのです、医療IDは。
医療IDでは、学習者が遭遇する問題に対してより良い問題解決ができるようになること、医療の場合は医療者が患者のアウトカムにインパクトを与えられるような判断、意思決定そして行動力を獲得することが学習のゴールであるとの共通認識に立って、インストラクションをデザインし、教材を使ってインストラクションを行います。
ガニェのインストラクショナルデザインの原理にある一節を再度引用します。
「インストラクションの目的は、人々の学習を助けることにある。」
医療IDの目的は、医療者の学習を助けること、医療者が将来遭遇する問題解決の場面でより良い判断、意思決定と実践ができるようになること(実践の結果として望ましい成果を上げること)を助けることにあります。これが最上位の目的で、ACLSコースの学習目的はこの文脈の下位に位置します。ACLSコースでは時間、使えるリソースなどに制限があるので、それらを最大限活用し意図された学習成果をあげるためにインストラクターは学習者の学習を支援します。
というのがID時代(2005年以降)のAHAのECCプログラムの要点になります。AHAがIDを導入して既に10年以上が経過し、現場のインストラクターの皆さんもIDerの意図を理解したインストラクションが出来るようになってきたのではないでしょうか。2008年時点でAHAのECCプログラムのメンバーは、ACLSの古くからのインストラクター(sage on the stageタイプ)はIDされたG2005の教材を意図された通りに使いこなせずにいる(講義中心になっている)、それが最大の課題だ、と言っていました。伝統的なインストラクターが新しいテクノロジーを獲得し効果的・効率的・魅力的なインストラクターに発達するには時間が必要です。
医学教育、看護学教育や卒後教育が効果的・効率的・魅力的であるためには、教員、現場の指導者が医療IDを共通言語・ロジックとして用い、また既に蓄積されたIDの知見を駆使することが必要だ、と思います。